2003年03月28日

戦争というメソッド

人は無条件の愛をマスターするまで、学び続けているという。
そのために幾世にもわたり、輪廻を繰り返しているらしい。
私は特に何かの宗教や信仰を持っているわけではないが、この在り方を支持している。
生命形成と進化について、とらわれなく考えるとき、この在り方はとても自然に感じるからだ。


人間には、思考能力が与えられているがゆえに、どんな出来事からも、そこから学びと教訓を受け取る知恵に変換できる。

どんな出来事…戦争からも…だろうか?


私達の中には、こだわりを捨て、本来の在り方に近づくために、逆に、ある特定のこだわりを徹底的にやってみる…という手段をとる場合が往々にしてあるような気がする。

アルコール中毒者がそれを止める決意するのは、「死ぬほど」呑んで、「死ぬかもしれない」宣告を受けた後だったりする。
また浮気の虫が治まらない亭主の遊びが止まるのは、時として『危険な情事』さながらの愛憎劇に心底尽き果てた後であろう。

お布施をして改心した…なんて人は見たことがないが(そういう振りをしている人はいるにしても)、上記のような例は本当に頻繁に見聞きする。


私達は、過去の過ちをそれと知りつつ、かくも繰り返してしまうのは、人間は、地球という現実に肉を持って生きているために、自分の身に通さなければ血肉になっていかないのだ。

つまり、本当に痛い目に遭わなければ、わからないってことだろう。
嫌だと言いながらも繰り返しているうちは、まだまだなんだろうな。


何にせよ、とことん、やってみることだろう。
「そんなことしたら、死んでまうやん?」と思うかもしれない。

そうなのだ。「死ぬかもしれない」ほどやってみて始めて、「死ぬよりはいい」という“健康的”な判断がやっとできるお馬鹿な私達地球人。

先にできてりゃ、生まれてこないさー。

…などと、呑気にうそぶいていられないこの戦争だけれども、戦争こそ、その最たるものだろう。


何があろうと(それがたとえ正当な理由であったとしても)、「殺るのも殺られるのも、もう嫌だ!」と全身全霊で思えたとき、私達は、はじめて今まで味わったことのない本当の平和へと顔を向けて行くことができる(のだと思う)。
それ以前の平和など、いつ戦いに転じるかわからない、もろいものだ。


成長進化を志向する魂にとって、戦争すらメソッドとして、存在しうる。
ただ、最も痛みが強くて負担の大きい、最高リスクのメソッドであるのは言う間でもないけれど。

精神にとっての戦争とは、まさにそれを「捨てる」ために、宗教的に答えるなら「喜捨する」ために行う最大のものであると言えるだろう。


個人的には戦争など体験せず、一生、平和ボケしていたいのだが、この情勢を見渡すかぎり、なかなかそうは米問屋が(わかります?)下ろしてくれないかもしれない。
今のうちに、もっとささやかなこだわりからポイポイと「喜捨」してしまいたいもんだ。
posted by ミケ at 15:04 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年03月21日

超感覚について最近思うこと

シンボリズムを真剣に探究するようになって、10年あまりが過ぎた。
そのうちに、リアルな幻視をたびたび見るようになって、その意味するところを、何とか探り出そうと、あの手この手を考えだした。

はじめは、幻視の摩訶不思議さと美しさに心を奪われ、何か、特別な理由を探ろうとしていたけれど、実際は、これは特別なことではなくて、自分を観察しはじめると見えだしてくる白日夢に過ぎないことがわかってきた。

特別なことではないし、特別な人に属するものでもない。
「ただの幻視」なのだ。

心の広さ、優しさ、強さとは、全く関係がない。
ましてや、人格的成長とはま・る・で関係がない。
心の鋭敏さにのみ関係してくるだけだ。
この鋭敏さから、心の広さ、優しさ、強さに繋がらなければ、

「こんなもん」百害あって一利無しなのだ。


チャネラーと呼ばれる人たちも然りで、それは、「ただのチャネリング能力」であることを忘れてはいけない。
このような能力は、徳を積んだ人しか出て来ない…などと言い放っていた人を知っているけれど、絶対に違うと言い切れる。

自分を見つめたとき、誰にでも起こり得る現象だ。
極論では、昨夜人を殺した人間にさえ、あり得る能力なのだ。

中には、修業を積んでいく過程で、必然として能力が現れることもあるだろうが、そのような人はおそらく、チャネリングなどの超感覚能力の本質を見限っているだろうから、それをとりたてて神聖視するようなことは、断じてないだろうと思う。


神秘体質になるために、超感覚を養うためのメルマガを発行している私が、こんなことを言うのも、可笑しく感じるかもしれない。

けれど、これは本当に、注意すべき真実なのだ。


じゃあ、アンタは何しているのさーと、問われれば…。
私が、なおも超感覚の必要性を解くわけー。


自分を研ぎ澄まし、超感覚的なものを、さらに、見つめ続けると、現象の奥で、じっとじっとじっと私達を「見つめているもの」…に、出会うようになる。
あるいは、見つめているものーに関して、思考が及ぶようになるだろう。
すると私達は、それに対して、ある感情が否応なく動かされることになる。

簡単に言えば、それは「感謝」の2文字だが、
これが、魔法のように心に効くーのだ。その優しさ、広さ、強さ…において。


だから、幻視などのビジョンやその他の超感覚に囚われて、そこで立ち止まってはいけない。
それらが立ち現れたとき、「まだ奥がある」と一言言って、さらに見続けていきたいと思う。
ただの敏感人間であるならば、それは不都合極まりない。
posted by ミケ at 15:02 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年03月14日

汚い川

昨夜の夢。
久々の新聞記事の夢だった。
私の場合、新聞記事の夢は現実のニュースとリンクしている。


『汚い川』
一面の大見出し。
天皇陛下の崩御を伝えた号外並みの大きな見出しで、こう書かれていた。
そして、その他の記事は一文字も書かれていなかった。
すぐに目が覚めて、暗闇の天上を見上げながら、私は直感した。「戦争だ」と。


しばらく忘れていたほどの激しい悪寒で鳥肌が立った。
恐い。夫を起こした。

「戦争がはじまる!」
「そりゃ、始まるかもしらん」

彼は寝ぼけながらそう言った。


戦争が始まればどうなるのか…見たくもなければ考えたくもないこと。
爆撃で引きちぎられ、焼けただれ、蛆がわく肉体。
痛みと恐怖と絶望と悲鳴。
跡形もなくなった街。血に染まる川。汚い川。


河川などの水に関する夢は、内面世界を物語っていると言う。
私の内なる「汚い川」が、他者の「汚い川」と混じり合い、巨大な流れになって、あの夢にニュースを現す新聞として現れたのだ。


自分の心を正直に見つめれば、汚い川とて流れている。
それが世界の見たくもない流れと繋がっていようなどと、普段は考えたことすらない。


夢の言語は、そのままを物語るわけではなく、この次元の言葉と少しずれている。
そしてその中に寓話的な示唆を多分に含ませている。
夢は、現実世界を反映させると同時に、その内面に浮かび上がっているものを表している。

「汚い川」…

私に向かって広げられた夢の紙面は、世界の状況と共に、私自身に突き付けられたもの。


私は、どこかの国と同じように、いい気になっていなかったろうか?
平気で汚水を垂れ流すようなことはしていなかったろうか?
あ、ここまで、書いて気が付いた。

もうすぐ『世界水フォーラム』が京都で開催される。

そうか…そうだったんだ。


京都に住む私の夢は、この情報にもおそらくリンクされていた。
私、私達、世界の水、そして戦争。
私達は繋がっている。たしかに繋がっている。

それは川の流れと同じなのだ。
どこかの汚れは、必ず、すべてに広がる。
まず、私の中から汚れを見つけ出さなければ。本当に。


夢は、現実の青写真を夢の言語で語る。
しかしそれは「まだ」現実ではない。
私達の「意識」を表すことで、現実のひな形を見せる。


まだ大丈夫。
私は言い聞かす。
夢が現実に降りている最中だろうから、今のうちに意識を私自身が変えてしまえば回避できるかもしれない。
一人でもたくさんの人が本当にそれをすれば、できるかもしれない。
あまり時間はなさそうだけれども。
posted by ミケ at 15:01 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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