2003年07月26日

ビブリオマンシー〜魔法の杖〜

日曜の午後、本屋で『魔法の杖』という本が目に付いた。

ファンタジーを愛するわたくし、そのまんまのタイトルに惹かれたのと、占いの監修などで馴染みのある鏡リュウジさんの翻訳だということで思わず手に取る。


古くから伝わる「書籍占い(ビブリオマンシー)」の本だった。
悩みがある時に、本にお伺いを立てるごとく、念じて、ぱらっと本を開く。
すると、そこには、まさにその時、必要な言葉が書かれてある…

という占いをするための本だ。


わたしはその時、ちょうど気掛かりなことがあったので、本屋の店頭でそのことに対するヒントを求めると、


「変容の冥王星が、『忘れなさい』と告げています」


と、魔法の杖は語った。

心がぐぐっと惹き付けられてしまった。


わたしは学生の頃から、迷うことがあれば、国語辞典に神託を仰ぐーという習慣があり「書籍占い」は実は馴染みのメソッドだ。

辞書を手に持ち目をつぶって、えいっと開いて、おもむろに指を置いたところが答え。


コレが、けっこう効果アリ。
コツとしては、質問が明確であればあるほど良い。

また、悩み度より、求め度。
ただ単に悩むより、強く求めること。
「求めよ、さらば与えられん」なのだ。


また辞書占いは、ひまつぶしに遊べる。

「今、わたしに必要なひとこと、ください」

求め度が希薄なこのような質問は、間の抜けた言葉を指差していることが多いが、その言葉からイメージを広げて「今朝のおことば」を創作するなど右、左脳連動の訓練にもなるし、ボキャブラリーも豊かになるという、一石二鳥なメソッドだ。


辞書と魔法の杖を補完させると、書籍占いは、まさに完璧。
啓示に満ちた言葉が尽くされた『魔法の杖』と膨大な語彙群の国語辞典の組み合わせは最強の神託アイテムだ。

でっかいズタ袋にこの重い2冊を入れて、カラスのいる公園のベンチで神託を仰ぐ姿はまさに魔女のよう。(笑)


どんな占いでも、言葉そのものより、その言葉の奥にあるきらめきのようなものを感じ取ることで、わたしたちの深層に伝わってゆくものがあるのだが、書籍占いは、その神髄を究めた占いだと言っていいだろう。


それは、言葉の向こうにある、自分の内なるものとつながる甘い泉に手がそっと触れてゆく
…そんな喜びが伴う。
わたしは、何度でも、何度でも、この泉に触れてゆこうと思う。
そこにはきっと、ほんものの魔法の杖が沈んでいるはずだから。
posted by ミケ at 15:11 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年07月11日

子どもは神秘の体現者

日曜の朝のこと。
お寝坊のママより早く起きる6才の娘は、着替えを済ませ、ベッドでまどろむ私のところにやってきて、何となく興奮気味にこう言った。


「わたし、いつも朝になると思うんやけれど、朝、起きると、おもちゃが新しくなっているように見えるんや。なんでやろ〜?ママ…」


興味深く聞いていると、彼女は続けて言った。


「おともだちも、そうやで。みいちゃんも、まやちゃんも、昨日まで遊んでけんかしてても、朝は、みんな新しいお友達に見える。みんなすっごいかわいらしいな〜って思えんねん」 


私は、ほんとうに感動してしまった。
娘は、眠ることで、毎朝「生まれ変わっている」のだ。
だから、朝起きると何もかもが新鮮に見えるのだ。


私は、こんなメルマガを出しておきながら、この朝の新鮮な感覚を、いつのまにか失ってしまっていた。
ギリギリまで眠り、お弁当を詰め、駆け足で通園&通勤電車に乗り込んでいる。
新鮮さを味わう余裕などみじんもない情けなさだ。


今ではそんなわたしだが、かつては、コレを経験していた。
というより、強烈に体験していた。


だから、娘の言ったことが、どんなことなのか、私は生々しく想像できる。
これが、三昧の境地と言うのだろうか?
静かな興奮をともなって、辺りがきらめいている。


「幸せでしかたがない」という状態だ。
強い強い、心の状態だ。


この時の輝かしさは、どんな言葉にもできなくて、言葉にすればするほど幼稚なものに変わってしまうよう。
私はときどき目を閉じて、言葉ではなくて、あの「感覚」を全身に呼び覚まそうとする。


彼女は、今、そうなのだ。
私は、感激で胸がいっぱいになる。
ああ、この静かなるものが、どうか生涯、彼女を励ましつづけますようにと祈る。


今、まさに、娘のまわりには神秘があふれ続けているのだろう。
だから、あの娘は、毎朝誰よりも早起きをして、一人でお絵描きを楽しんだり、おもちゃで遊んだりしていたのだ。


神秘性と現実的な歩みはしっかりと共存できる。
むしろ神秘性を追求すれば、現実的なものが、より色濃く感じられるはずなのだ。


私は、そのことを娘に改めて教えてもらった気がする。
こどもはマジカルの体現者。
夜の夢は、朝の生まれ変わりを約束する。
眠り自体がすでに神秘なのだから。


逆に言えば、神秘性が現実につながっていなければ、ましてや現実逃避になっているようであれば、それは神秘でもなんでもないと知っておくべきだ。
良くて、暇人の暇つぶし。悪けりゃ、病だ。


自分の神秘が、どっちに向かっているのかを知る簡単な方法が、

「今朝、新鮮であったか?」
「その新鮮さは、前日、喧嘩をしてしまった友(憤った人)へのこだわりを払ってくれているか?」

の一点を、常に自分に問いかけることからはじまる。


……と、あなたに話しながら、私も自分の衿を正そう。
私たちは「毎朝、生まれ変わっている」のだから。
posted by ミケ at 15:09 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年07月04日

愛情と執着

結婚生活を続けていると「いつのまにか○○になっていた」ということが増えてゆく。


私なんかは、たいそうきれい好きの夫のおかげでおおざっぱでなかなか気づかない質だったのが、ちらかっていると気になるようになっていた。
(彼に言わせると、まだまだみたいですけれど- -;)


その逆の人もいるようで(例えば夫…^^;)、いい加減な妻といるうちに、多少の汚れは目をつぶるようになったりとか、相手を気にせずもくもくと掃除をするようになったりなど、いつのまにか迎合しあっている。


私は、かつては、どんなささやかなことでもパートナーに聞いてもらわなくては気が済まなかった。
自分のことに耳を傾けてもらい、理解してもらうことと、相手のことをなるだけ理解しようと、多くを知ろうとしていた。


けれども、これはものすごくパワーを使う。


職場や子供の保護者同士の人間関係の話などしても、彼には、ただのうわさ話にしか聞こえないようだった。
まともに聞いてもらっていたのは、当初3年くらいのこと。


そのうち、こっちもお笑いを交えるなどの、聞いてもらえるような工夫をして話すように考えていたけれど、こういうことも次第に疲れてくるようになる。


しかし、私の場合、この段階がけっこう長かった、って言うか、つらかった。
今思えば、「理解してもらう」ということに異様に執着していたように思う。


「この人だけには、わかっていてほしい」


この考えは、一見、マトモでありながら、けっこうしんどい。
でも、このしんどさを認めなくなかった。
たとえ聞いてもらってなくても、ここで、自分があきらめたら、パートナーにたいする情熱が失われてしまうような気持ちがして、それがこわかったのだ。

私は、彼を好きでい続けたかったし、それが二人の親密さの証のようにさえ思っていた。


これが不思議なことに、長く風雪にさらされていると、変化していく。
理解に対する認識、情熱や恋愛に対する定義が、これまた「いつのまにか」変化していたのだ。

話そうとする前に、それがパートナーが聞いてくれる話かどうか、だいたいわかる。
実際これは、誰でも気づくことだ。
しかし、そこで「知ってもらおう」と執着が働いていたので、勘や気づき自体が鈍くなっていたのだと思う。


同じ話でも、タイミングが合えば快い時もあると知った。
だから言わなければならないことなどは、待つことも学んだ。
彼との会話でもう不愉快な想いをすることもほとんどないし、こちらも嫌なひとことを言う必要もない。


数年前の自分と比較すると、怖いくらい淡々としている。
私はかつて、こうなるのが怖かったんだな、と思う。
パートナーへの愛情がなくなっていくようで。

しかし、違う。
淡々としている気持ちと、愛情は全く関係がない。
私は、彼のドライさのおかげで、自分がとても鋭くなったのを知っている。
相手を自由にしてあげることで、何よりも自分が自由になっていた。


関係をうまく続けるための日々の知恵は、そのまま人間変容の知恵となる。
posted by ミケ at 15:08 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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