2012年01月10日

メッ!のはなし

暗証番号を問い合わせに銀コーに行ったら、暗証番号が間違っていたわけではなくて、カードの有効期限切れだった。新しいカードは昨年発行されていたらしいけど届いていない。調べてもらったら、住所変更をしそびれていた。うぅ…、また怒られる…。(^^;)
この年になっても、私ほどしょっちゅう怒られる人は少ないのじゃあないでせうかね。要するに、ええ加減でどんくさいっちゅうことですが。

怒られるというのは、だれだって気分の良いものではない。赤子から子どもに移行したばかりのうちの王子もそれは同じで、「メッ!」と言って親指を立てると、反射的に怖い顔をして私の親指を小さな手ではじくようになった。
おもしろいので、私;「メッ!」鯛坊:指をはじく、私:「メッ!」鯛坊:指をはじく、私:「メッ!」鯛坊:指をはじく…を繰り返していたら、そのうちにウワーンと泣き出して私に飛び込んでくる。
私:「ごめんね!」ヒシっと抱く。(笑)

よう考えたら、この可愛さはDVしている方のSっぽい心境と同じなのではないか。(^^;)
以後、気をつけます。はい。


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2009年08月11日

黒いうさぎ 〜愛されたい中毒〜

ワイドショーはのりぴーで賑やか。
わたしも、なぜか梯子してまで見てしまってグッタリ。あーばかばか…(^^;)
人々の好奇と非難の的となって、今、地獄の真っただ中だろうのりぴー。
見つかればこうなることが分かっていたろうに、抑制できなかった彼女の弱さを思う。この弱さを引き出すことになった彼女の孤独を思う。底知れぬ孤独を思う。黒いうさぎ。

人間とはかくも弱き者なのか。同じ孤独を味わえば、だれだっていつ何時、転落するかわからない。
人は、どこかで孤独を乗り越えないといけなくなっているんだろう。
それは、愛されようとするある種の甘ったれ根性を脱ぎ捨てるということ。
こんなことを言ったら、愛されることは悪いことなのか?と責められそうだけど、もちろんそうやないよ。
人が人と関わる時、自らもそうとは知らずに仕掛けるあの手この手は、ほとんどは「愛されたい」という叫びであることは、ちょっと注意深くまっすぐに見つめればわかること。

愛されたい…。
その願いが叶わぬ時にやってくる孤独と絶望。それを癒したい一心で、時に人は誤った選択をしてしまう。
…中毒。刺激と熱中の世界。そう、今回のりぴーが陥ってしまったそれ。偽りのぬくもりだと知りながら、黒いうさぎを抱き寄せずにはいられなかったのりぴー。お酒やクスリやSEX…さまざまな依存中毒の世界は、あまりに辛い孤独感をまぎらわすために、わたしたちを耽溺させる刺激によって、ほんの少し孤独の痛みを麻痺させることができるから。

でも…、求めた愛が報われなかった時、その時、わたしたちが黒いうさぎの罠に気づくことができたなら…、孤独を乗り越えることを選べたなら…、おそらくその絶望は福音に変わる。
愛されようとしなくても、愛されているのだという気づき。それは神というか、世界と言うか、そんな大いなる何かと自分だけの間で交わされるもの。静かで微かで、気づかないくらいの小さな小さな声で。

のりぴーが這い上がってくるのに、どれくらいの時間が掛かるのかはわからない。彼女がこの先、どんな立ち直り方をしたとて、今回のことは醜聞として一生付いて回るだろう。それだけは、もう取り返しがつかない。
ただ、どんな形であれ、彼女が本当に立ち直る日が来たとしたら、人の弱さと痛みの理解者として、静かに存在を響かせることは可能だ。中毒を克服することは、身を切るほどに痛くて辛いことだろうから、それだけに本当にそこから立ち上がれたなら、まさに中毒に陥っている人々への強い励ましになることだろう。
そう、この中毒は、だれにでも陥る可能性があるのだから。単に麻薬中毒とかSEX中毒という意味ではない。「愛されたい中毒」。目に見える依存症の多くは、この目に見えない中毒が発端なのだから。
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2009年07月16日

執筆取材のお手伝いをした本『妖怪を見た人びと』

以前『日本妖怪大百科』の神社特集を書かせてもらったご縁で、妖怪に目覚めたワタクシ(^_^)。並木先生のこの本のお手伝いをさせていただきました。フツーの人が体験した妖怪(河童、座敷わらし、ろくろ首、鬼、天狗…etc…)のはなしが50編も集まっています。仲間たちと集まって怪談話に興じた、あの遠い夏の合宿を憶い出すような、懐かしい雰囲気も漂っていまして、なかなか素敵な本です。
妖怪って幽霊とはちょっとちがって、ユニークでユーモアに溢れた存在で、見方を変えれば少し意地悪したり怖がらせたりして遊ぶお茶目さと人間くささが魅力的だったりします。だから中には『ゲゲゲの鬼太郎』のように爆発的にヒットするものも出てくるんですね。
並木先生はもともとUFOやUMAなどの研究家でその関係の著作も多いのですが、お話してみるとお優しくてたいへん気さくなジェントルマンでして、語り部おじさんとしてもピッタリの風情の方ですので、これからの語り部譚も楽しみです。
わたしもいくつか自分の体験を語らせていただきました。こんなふうに言ってはなんですが、スピ系よりずっと健全なので(笑)、楽しいお仕事でしたよん。
他の方のお話も拝読させてもらっても感じたのですが、この本には「うんうん、何かわかる」「そうそう!」と、思わず膝を叩いてしまうような説得力と、少年少女時代を蘇らせるようなノスタルジックな風流さがありまして、怪談百物語ではないですが、一話一話はごく短いお話なので、一夜に一話ずつ、こわ〜い(ちょっぴり愉快な)お話を、子守唄代わりにいかがでしょう?怖くて、摩訶不思議な証言がいっぱい!大人にこそ読んでいただきたい。この夏にオススメです。^^


妖怪を見た人びと
並木 伸一郎
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2009年03月15日

夢見問答

明晰夢がなんの役に立つのか?なぜゆえに夢見なのか?
と、ときどき問われますが「おもしろいから」と答えます。
役に立てようなどという色気を出して夢を見ようとすることなどは、よほど現実で悩むことがあって、いろんな解決の一つとして祈りながら眠る時も稀にはありますが、まあ、ほとんどは役に立てようなんてことは一切考えず夢見を楽しんでいます。

     †

予知夢のようなものを見ちゃったらどうしたらいいのか?
ということもときどき問われます。
予知夢と言っても、そのものズバリを見ることより、ちょっと変化させたものを見る場合の方が多いので、自分の夢が現実とどんなふうに混ざり合っているのかを様子を見ながら観察するのがいいと思います。
たとえば天変地異の夢を見たからって、すぐに周囲に吹聴するというのはイタイ人丸出しでよろしくありません。当たる当たらないことより、そんな姿勢自体を恥ずかしいと感じる感性は、要するに「それ以前の問題」なので、そういうまともさや冷静さを、ちゃんと持っていることの方が予知できることよりずっと大切です。
仮にその地域に家族がいて、よっぽど心配であれば、あとから人騒がせだと怒られたり笑われたりを覚悟で、家族だけに告げるにとどめて、あとは観察するくらいの距離感で夢見と付き合うのがいいでしょう。そのうちに夢見と現実のつながりについての理解も洗練されてきますので、そうなれば、どうすればいいのかも、その都度いちいち葛藤せずにわかってくるようになるはずです。

     †

夢見の効用はなんですか?と言われれば、
「新しい次元の自分の発見」に尽きると答えたく思うのですが、これはあくまでものその問いへの答えとして、わたしが今感じている正直な感覚であって、その効用を最初から目的として夢見に挑んでいるわけでは決してありません。まあ、最初からそれをもくろむのも一興かもしれませんが、わたしは個人的には、そういう在り方が好きではありません。
そんなふうに夢を見ようとしても、むしろ自分の枠を強固にするだけではないでしょうか?わたし達は、自分の枠の外からモノを見ることができませんから、もくろみそのものが枠になってしまうのです。そうなると、せっかく発見しているはずの新しい自分がここに在るにもかかわらず、「発見したい」というもくろみ(想い)の方が、感覚として勝ってしまうんです。もったいないもったいない…。(笑)
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2008年12月28日

猫天使の愛と憂鬱

 11月のはじめより、猫を飼っている。
 ミケなんてペンネームをつけておきながら、正直に言えば、わたしはイヌやネコの小動物が極めて苦手であった。わが家に猫がいるなんて、一年前の自分からは想像すらできなかった。
 
 こんなわたしだが、わが家の一員として猫娘を迎えることになると、可愛くてしかたがない、と感じるようになった。慣れないヘタレ猫ママのミケさん、お世話でジタバタしながら年は暮れていく。
 

 先日、まだ年若いこの猫娘に、いわゆる‘さかり’がきた。彼女にとっても、はじめての体験。

 今後もずっと、家猫としてそばにいてほしいと願っているわたしは、繁殖させるつもりはなくて、だから彼女に殿方を紹介することはこの先ない。
 しかし、ごはんもほとんど口にせず、わが身に何が起こっているか理解できぬまま身をよじることしかできない彼女を見ていると、何とも切ない気持ちになる。

 猫の発情は、本来季節のものらしいけれど、最初はまだ安定しないので、早々に次の発情がくることがあるらしい…。
 その通り、2週間経たない間に、またもさかりを迎えたわが家のニャンちゃん。机の角に顔を強く押し付けて、その場をしのごうともがく彼女。あげくに猫のバランス装置でもあるヒゲがひっかかってポロリと抜け落ちた…。

 何とかしなければ!

 満たされない欲情を抱えていることは、猫ちゃんには大きなストレス。繁殖が存在意義の大きな柱でもあるニャンコにとって、発情そのものが、人間のものとは著しく違う。彼女に激しい消耗を与えているのは明らかだった。
 
 クリスマスイブだったが、この日しか獣医さんの日程が空いていないということで、慌てて避妊手術を決行した。

 手術が無事終わると、麻酔から目覚めたということで面会に赴いた。

  ………

 …わたしは、このときのニャンコの姿を、一生忘れることはできないだろう。

 積み重ねられた檻の一つに、彼女はただじっと座っていた。周囲の犬の鳴き声に怯え、痛みに耐えながら、小さく震え続けていた。そのいたいけで哀れな姿に、小学生の娘は、耐え切れずに泣き出した。

 もちろん獣医さんが悪いわけでも、動物病院が悪いわけでもない。彼らは、ご自身の仕事を誠実にやってくれただけだ。

 わたしは、人間の業(ごう)を、あの無垢な存在に見せつけられうろたえたのだ。わたしは、「わたし」の業に直面させられ、言葉を失った。
 汚いコトバで申し訳ないが、ヘドが出る。
 人間という愚に。わたしという嘘つきに。

 なにが、癒されてカワイイだぁ!?ほざけろよ、オレ。このコがどんな悪いことをしたというのか?
 
 猫娘のいない部屋に戻り、今頃、あの小さな檻の中で、再び迎えにきてもらえるかどうかもわからないまま震えているのだと思うと辛かった。
 とてもクリスマスどころの気分にはなれなかった。娘の方も疲れが出たのか発熱したようで、頭が痛いと言って何も食べずに横になった。 


 猫の親元でもある姐さんに電話を掛けた。この一日の報告と、今の混乱と。

 3時間くらい話したかもしれない。(姐さんのクリスマスイブをまるまる電話でつぶしてしまった……m(_ _)m)
 
 3ニャンの猫ママでもある姐さんは、この愚を何よりも知っている。何度もこのシーンを目の当たりにしていても、泣かないで済むことは一度もないと言った。

 術後の彼らの姿は、一番見たくないものだけど、絶対そこから逃げてはいけない──そこから目をそらしてはいけない──猫といっしょに暮らすということ、ひいては人間が生きるということまで、モノを話せぬ彼らからしか学べないことは、あの瞬間に凝縮されているから──と。

 今年のクリスマスイブ。結局、この日の晩はぶっ倒れたように眠った。

 そして翌朝のこと。
 わたしはこの件に関して、思索の果てまで泳ぎ切った爽快感と諦観である意味、どこか生まれ変わったような気持ちになっていた。


 おそらく、何を選択したところで、すべてはわたしのエゴだろう。良かれと思ってやっていることさえ、いや、良かれと思っているからこそ、それがエゴにほかならないことに気づけない。
 そう、すべては人間の(わたしの)エゴ。 
 …飼い猫の話をしているのではない。

 わたしは、このことを猫の存在により知った。彼女がいなければわからなかった。
 すべては人間の(わたしの)言い訳。
 …飼い猫の話をしているのではない。

 生命にとって、最も欠くべからざるはずの感受性を失ったまま、わたし達はこぶしを振り上げ、善を振りかざしているという愚を。


 わたしは神が何者かは知らない。世界が本当に愛で動いているのか確信がない。ただ、こんなエゴイストな人間(わたし)であっても、しかし「翌朝」がやってきてくれること──これは愛に他ならない。

 わかってくれますか?

 わたし達は、愚かな人間であるということを外しては生きていけないのだ。猫を飼っていても飼わなくても、わたし達は、人のためと言いながら、実は自分のことしか考えず、日々言い訳に生きて、眠りにつく。
 
 ──なのに、わたしたちは生きることが許されている。
 
 そこには、愛 しかない。


 わたしの都合で傷つけられた猫娘は、今、わたしの傍らで眠っている。こんなにヒドイ目に遭わされても、彼女は愚かにもわたしを慕う。この愚かさは、崇高だ。無条件な‘それ’そのものだ。
 この愚かさ──。
 
 わたし達が「翌朝」を迎えられるという愛は、この愚かさに等しい。
 ニンゲンという、世界で一番情けなく愚かなイキモノを担当して、わたしは来年も恥をさらしながら生きていくことだろう。
 愛しいものを、こんな目に遭わしてもなお、性懲りもなくいつかもう1匹飼いたい…などとふと思ってしまう矛盾する心を、「このコにお友達を作ってあげたいから」などと、もっともらしい言い訳を垂れながら。


    ===ハイ、今回はここでおしまいです===


 ああ、一匹の猫ちゃんにも、わたしは叶わないよ…。(^^;)

 そんな年の瀬の、ささやかで、でも心に深く刻み付けられた出来事。来年も、こんなワタシがエラソーにごめんなさい…と言いながら、ほざけ続けまする。笑って許してくださいませ。
posted by ミケ at 13:52 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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