2008年03月15日

魔法にかけられた!

娘のリクエストで、ディズニー映画『魔法にかけられて』 (Click!) を二人で見に行った。
わたしは『ライラ…がいい』と言っていたんだけど、今回は娘に従って正解でした。いんや〜すばらしー、期待以上!…ってか、期待してなかったぶん、めちゃめちゃ掘り出し物的感動!娘の方は10年の歴史の中でベスト1と言っていたよ。いやあ、わたしも40年の歴史の中でベスト10に入れたいくらいでした。
それで、今さらながらわかった。わたしはどうやらミュージカルものがかなり好きだ。体からほとばしるように湧き出す歌とダンスが好き。(生涯のベスト3に入る『踊るマハラジャ』などは典型です、うん)
今回のは、ディズニーのお姫様シリーズのパロディが満載で、お姫様シリーズファンの人なら、虜になることを保証しましょう。夢と不思議とロマンスと冒険がいっぱい。恋する乙女はもちろん、恋するジェントルマンにもかなーりオススメの一本です。

わたしがもっとも心惹かれたところ。
おとぎの国から現実に飛び出してきたお姫様ジゼルは、はじめ「怒」という感情を理解していなかった。でも、生身の人間の世界で人と触れ合っていくうちに、彼女の中で怒りが目覚める。その瞬間がとってもイイのだ!身震いするほど素敵。彼女は、プリプリと腹を立てながらも、そんな新しい感情を味わったことに一方で歓喜して興奮していて、その表情が、そりゃあもうキュートでリアルで、ある意味セクシーでかわいすぎる。こんなお顔しちゃあ、殿方なんてぇイチコロン♪ だわよ。ほんま。
この素晴らしい一節、マイ映画史名シーンに、堂々と連ねますぜよ。これを見るためなら1800円は惜しくない。あたしゃたぶんもっかい見に行くでよ。DVDも買うでよ。(笑)
posted by ミケ at 23:57 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月03日

おひな様の残照

昨夜、目を閉じたら、ベッドの隣にお雛様のひな壇があるようなイマジネーションにとらえられた。実際はキッチンに鎮座しているひな壇なのだが、目を閉じるたびに、なぜか眠るわたしの真隣におられる感じがするのであった。残像効果というか、やはりお雛様には迫力があって、こんな小さな家だから、家中に存在が響き渡っている感じ。
お雛様は、もともと身代わり人形からはじまって、女の子の成長を見守るためという起源がなんかわかる気がするなあ。この残像と響きのことではないでしょうか?

昔の早乙女達はもっと敏感だったと思うから、この残像を一年間くらい、感じとっていたのかもしれない。近くで守っていてくれている…という安心感を。本当に守ってくれる殿方が現れるまで、少女たちは毎年ひな人形を飾って、自分の身代わりと、そしてお守りとして、自らのアストラルに刻んだ…と言えるのかもしれない。
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2008年02月04日

わたしの中の聖と俗 〜日本妖怪大百科vol.5〜

日記の方にも書きましたが、vol.5では、京都と東近江市の二つの素敵な妖怪の街を取材させていただきました。
それは、妖怪ビギナーのわたしにとって、とても刺激的で、また見えない何かに対する示唆に溢れたひとときでした。


前のvol.4では、寺社仏閣の記事を書かせていただいたように、神社仏閣めぐりは、わたしの趣味の一つ。

わたしの中にある妖怪に惹かれる面と、神社仏閣に惹かれる面…。
取材を進めるうちにハッと気づいたのですが、このことは、相反する二つのことでは全くなくて、実はとても似ていることを発見したのです!

わたしが神社仏閣が好きだという理由は、あえて言うなら
「そこに『何か』があると思うから」。

「何か」というのは、「真実味」とか「リアリティ」というのに近いような気がします。

そう、こんなふうにも言い換えられます。

「何か真実(ほんとうのこと)があるような気がするから」。

これは、妖怪好きの人々が、なぜか妖怪に惹かれてしまう理由と一致しているようなのです。


かつて捨て置かれた器物たちが魑魅魍魎と化し、一条通を闊歩する百鬼夜行の姿に、エコのテーマを見るという粋さ。

村々に残る「早う寝んかったらお化けが喰うぞ」と子どもをしつける習慣に、目に見えないものへの畏怖をも学ばせる在り方。

わたし達は、その幻想の中に何か「ほんとうのこと」を感じるのですね。


また、妖怪の世界は、デザイン的にも美的かつ自由でオシャレです。
決まり事の多い宗教画の世界とは違い、自由であるからこそ、いにしえの人々の本音が、そこに託され、にじみ出ているように思います。

取材で伺ったことで、わたし自身もしみじみ感じたことは、正史は、勝者の歴史しか載せられていないから、改ざんされたり、本当のことから乖離していることが多々あるけれど、人間と歴史…本当のリアルな姿を知りたいなら、敗者の歴史を含む妖怪の世界だ、ということ。


実は今回の取材で、もっともビックリしたことが、妖怪マニア人口の多さですが(まあ、もっともマニアが多いからこそ『妖怪大百科』なる十巻仕立ての本が発売されるわけですけど)妖怪の世界にこそ、人々の本音の思いを伝えることができるから、それも、とてもうなづけることだと感じました。

オシャレで、自由で、本音で、フシギなこと…
人は単に理論的に正しいことより、むしろこんなリアリティに心を惹かれるのですね。


わたしはいろんな方との妖怪談義に交じりながら、(妖怪事業?をなさっている方って魅力的な御仁が多いなあ〜)と感じていたら、ある方が、ポロっとおっしゃいました。

「妖怪好きの女性って、なんでかキレイな子とか、かわいい子やオシャレな子が多いんやわ」と。

ふうむ、なるほど。
これは、ぜひともお仲間にならなければ。(笑)


…まあ、そんなわけで、わたしの中で矛盾なく存在する聖と俗。

 ……いんや、ちょっと違います。

これらは、聖と俗、正と邪、光と闇、善と悪などという
「相対する二極」に惹かれている、なんて単純なシンボリズムでは全然ありません。

わたしの中では、「人の中に生きている本質的なもの」という意味合いで、社寺が好きなことも、今回、妖怪を好きになったことも、聖も俗も、まるっきり矛盾なく、おんなじことなんですから。


日本妖怪大百科は、あの荒俣宏氏が監修で、VOL.5では『妖怪はHだ』というタイトル書かれている中に、葛飾北斎の描いた『大ダコにかどわかされる海女』という、めちゃめちゃHな妖怪春画が小さく寄せられています。(笑)

北斎と言えば、言わずと知れた浮世絵の大巨匠で、かのゴッホにも影響を与えた人としても有名ですが(夫が、以前アムステルダムのゴッホ美術館に行った時に、そこにあった浮世絵の数の多さにびっくりしたと言っていました)その抜きん出た作品群の中には、息を飲むような、すばらしい大龍王の大作もあれば、エロス漂う緻密(に過ぎる…笑)な春画の数々を残したことでも有名ですね。

彼が、後の世に、日本のみならず海外の絵描きにまで影響を与え、魅力的な人物像として、現在も人々にイメージされているのは、この一見、両極のものを、堂々たるモチーフとして表現しきる懐の深さと多彩さであり、だからこそ、人としてのリアリティを覚えるからではないでしょうか。

聖と俗。
それは、彼の中で、矛盾するものではなかったような気がするのです。

妖怪というと、単一のイメージを持ちがちですが、その奥深さに改めて目からウロコが落ちた、妖怪ビギナーのワタクシでした。(^_^)

ぜひぜひ、あなたも妖怪の美的で活き活きとしたビジュアルの世界観を味わってくださいませ。

VOL.5の中でも主な写真は、お友達のS子さんが撮影なさっています。
彼女はもちろんカメラマンですが、スピ系のことにも造詣が深く(というより、かなりのツゥです…)北斎よろしく、偏りなく、いろんなモチーフや人物を楽しんで撮っておられる様子。

先日も、とある神社さんに写真を奉納されることになったばかりで、妖怪の世界とともに、さまざまな次元がS子さんにとってのシャッターチャンス…なのかもしれないな〜…なんて、まぶしく感じてしまいました。素敵ですね。(^_^)


vol5.jpg

日本妖怪大百科vol.5 座敷わらしと屋敷の妖怪(Amazonへ)
posted by ミケ at 03:13 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月20日

物欲はワンダーランド

◯ 先だって、激しく物欲にさいなまれるもの(笑)に出逢った。こんな気持ちは十数年ぶりか。
ここ数週間、そのことばかり考えていたら、ふと自分の脳天からソレが突き刺さっているようなアホな感覚を覚えるまでになってしもた。(^^;)

◯ 物欲は「自我」や「エゴ」と信じている人が多いような気がするけど、わたしはそうは思わない。自我とは、わたしの場合、ほんとうはそうしたくないのに無理に何とかしようとしている時にだけそう感じる。たとえば趣味で書いている小説を、途中で切り上げたくなったのに、何とか今晩中にやってしまおうとしている時とか、十分に満腹を感じているのに、何とか食べきらなきゃと我慢して食べている時。ブーツを買おうと選んでいる途中で、ほんとうは購買欲が急に冷めちゃったのに、どうしても選ぼうとしている時とか、わたしはエゴの存在を強く感じる。

だから物欲そのものは、わたしにとっては、ちっともエゴじゃない。ほんとうにそうしたくてそうしている時は自我も真我もないで。そうしたくてそうしているのは、それを手に入れようとあれこれ思案するのも楽しくてワクワクするし、アイデアが湧いてくるし、しまいには脳天から突き刺さるっちゅうドアホな幻まで見え、わたしをワンダーランドに運んでくれるのであーる。
posted by ミケ at 05:30 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月18日

0系に乗って

わたしは、滋賀県の米原という小さな田舎町で生まれた。雪深い静かでのどかな町。駅の周囲は、かつては見渡す限り田んぼだった。
 そんな田舎だが、なぜだか新幹線が停まった。北陸道と東海道の交わる交通の要所だったということで、新幹線開通当初からの停車駅として、小さいながらも知られたところだった。

 生家の2階の窓からは、いつも新幹線が見えた。ホームに向かって「いってらっしゃーい」「おかえりなさーい」と、見知らぬ旅人に、よく手を振っていた。手を振り返してくれる大人たちはいっぱいいた。
 「ひかり」が猛スピードで通り過ぎる時、トタンのボロ屋はガタガタと軋んだ。一日に何度もギシギシ、ガタガタ。今でもこのホームから、あのトタンの生家を見ることができる。わたしはこの駅に降り立つと、反射的にあの「昔の家」を探す。「ある」のはわかっているのだが、見つけるとなぜかホッとする。
 新幹線の往来を告げるホームのアナウンスも、ヒューンと走りすぎるドップラー効果満点の「新幹線の音」も、わたしを形作った原型のようなもので、今でも忘れがたき憧憬のシンボル。心象風景として、目にも耳にも心にも刻み込まれている。「博多行き」という電光掲示板に心を躍らせた少女の頃。地図で博多を探し、米原から指でなぞった。東京から博多までの停車駅を(意味なく)暗記したりもした。(@今でも言えるよ、たぶん)
 京都の短大へは、寝坊すると親に内緒で新幹線にこっそり乗って通学した。‘どんこう’の倍の料金がかかったので、そんな贅沢は許してはもらえなかったが、寝坊助のわたし、バイト代のほとんどはこの秘密乗車に消えてしまったと告白しておこう。

 あの0系が消えるらしい。
 乗り降りする大人たちをまぶしく見ていた、あの頃のわたし、そして0系。少女のころ、旅人やビジネスマン達に手を振っていたのも0系。娘時代、秘密乗車していたのも0系。名古屋に移り住んだ彼に、毎週のように逢いにいっていたのも0系だ。
 0系は、わたしにとってすでに懐かしいものだけど、本当に消えてしまったら、思い出にしかいなくなる。かつて300系が登場した時などは、「しょうゆ顔(@死語!)、かっこえ〜!」などと気を移したりもしたが(笑)、やっぱり新幹線の思い出と言えば、あの丸顔のやさしい0系に集約されるのである。

 あと43日で、0系は本当に思い出に変わる。何度も言うが、新幹線とはわたしの心象風景の主要なシンボルだ。今でもたびたび夢に現れる。夢の中の新幹線は、いつだって0系だから。また夢で逢おうね、0系。また、遠い日の憧れと思い出を乗せて現われてね。
 そして、あなたも夢で会いに来てください。新幹線に乗って。
 夢で田舎町の駅に降り立った時、ホームから、民家の2階で手を振る小さな女の子を見つけたら、それはきっと「わたし」だから。

 ※10:41に博多から、0系新幹線こだま629号が公式サイトの方に来てくれるらしい。ありがとうJR西日本ブログパーツよ。(^_^)
 *ちなみに「米原駅」はJR東海の管轄です。
posted by ミケ at 05:30 | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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